みずものがかり

水は生きている。

愛の言葉をささやいたり褒めちぎったり感謝の意を伝えたりすると水分子の結晶が奇麗になる、その逆もまたしかり、という話。オカルトめいてはいるものの、物を語ることはないが植物たちも呼吸などの生命活動を行っているため、生きているからと言って何らかの意思表示がついて回るというわけではないように思える。要は外界との相互作用が能動的か否かは問題ではないということ。更に言うと我々人間も6割程度は水である、ということを踏まえればその主張、分からなくもない。賞賛や罵倒による気分の浮き沈みが身体の主成分たる水でないといいきれるだろうか。まあ、当然ながら人間が水だ、という逆説を罷り通すつもりはない。ありがとう、の一言で結晶構造が奇麗になってお肌にハリが出るのならばそれに越したことはないのだが。ここで言っているのはあくまで水という物質に生物性を認めるかどうかの話で、滔々と流れ続ける瀑布等パワースポットを前にして目をキラキラ輝かせながら「水って生きているんですねえ」という話ではない。

水は生きている。一向にかまわない。生きているんだから無駄遣いは止めようとか、最近体の調子がいいのはこの1本400円の水を使っているからなんですよ~とか、そういうことを言うつもりはない。俺が言いたいのはスピリチュアルな部分ではなくもっと生活に根差した部分、風呂について、だ。繰り返すが水は生きている、そして常温から水をやや熱した程度の湯というのもやはり生きているだろう。ここ最近、というよりここ数年の俺は風呂でため息ばかりついている気がする。好きだと言われれば奇麗な、嫌いだと言われれば汚い結晶を作る。それではため息ばかり聞かされた水というものはどうなってしまうのだろうか。そしてその水に浸かっている俺は。ただよう不健康の気配。身も心も解き放って完全に自由になれる時間だと思っていた風呂の時間が音を立てて崩れていく。奇麗な水に浸かりたいがために入浴中に「愛してる」「生まれてきてくれて嬉しいよ」などと呟く光景は純度のキ印100パーセント。入浴中に熱唱する人もいるという話を参考にし、せめてもの対策として愛や恋についての歌謡曲をひねり出そうとするも出てくるのはaikoばかり。水に向かって自分はカブトムシだと主張する成人男性の図、想像するだけでため息が出てくる。