汝印鑑するなかれ

印鑑を押すのが下手過ぎる。

義務教育で習わなかったことは殆どできない人間こと俺、齢20余にしてまともに印の一つも捺せない大人になってしまった。年金その他諸々の用事を片付けようと出向いた銀行でのこと、名前郵便番号住所など必要事項の記入後のシメにやってくる印。受付から差し出される朱肉を、思えば必要以上に付けていた気がする。そこそこに右手に力を込めて紙面に押し付けてやると、赤が滲んで文字の刻印が見られない半円のようなものが出現した。すかさず行員、「お借りしてよろしいですか」はい。俺とそこまで変わらない年の受付の娘が捺した跡にはくっきりと俺の苗字が。今日からおまえが俺でいいんじゃないか。「こちらの印鑑は通帳のお届印とは違うようですが」別方面で不覚をとった。

20分後、家にありとあるこれと思しき印鑑をゾロゾロ引き連れてやってくる俺。担当の行員が若い姉ちゃんからおばさんになってしまったが、まあいいだろう。雨上がりの湿気のために汗を流し、息をハァハァと切らしつつ捺した印はまたしても半円のようなものを描いた。「お借りしますね」持参した印鑑が2本目以降は無言で次々と捺されていく。そしてそのどれもが識別可能な美しい印。お前は俺のママか。届印は見つかり手続きも済んだが俺の中にしこりは残り続けた。

世の中には印鑑を押す才能があるやつとそうじゃないやつがいる、それだけの話ならばよいのだが。もっと指先だけではなく下半身から力を伝えるフォームでも学んだ方が良いのか?それとも俺の知らないところで押印学Ⅰなどといった講義が開講されているのか?分からん。印一つで巨額の金が動くことも考えれば、今後の人生で一人で押印ができないというのは何かしらのディスアドバンテージとなり得るのではないか?斯様な破滅の可能性に後ろ髪を引かれながら、そっとティッシュを手に取り印鑑についた朱肉を拭うことにした。それが俺の印鑑道の一歩なのだと信じて。