44-電車にGO

地下鉄に乗っていると空間の歪みを感じた。以前休日の女性専用車両に乗り込んだときに無言の圧力によってミリ単位の厚さになりかけたことがあったが、それとはまた違うし隣の開放的な登頂の持ち主は男だし。正体を探らんと違和感の密度が濃い方向へと視線を滑らせていくと、黒のニューバランス。紐があべこべの。

靴本体と同じ黒色であることから片方はデフォルト装備の紐であると思われたが、もう片一方は野球のスパイクとかで使う太いタイプの紐でしかも色は赤、燃えるような赤。現代社会は人間を没個性にするというが、その現代を象徴する地下鉄車内に置いて左右差紐の彼女は俺の前に強烈な個性を持って存在した。当の本人はすまし顔でスマホをポッチングしているがその足元ではスポーティな赤がコントラストでもって情熱を表現。新聞とっていないせいで時代に乗り遅れたか、Anecanとかでは靴の紐互い違い系の読モがスターダムを3段飛ばしで駆け上がっているのか、恐ろしくなって乗客の足元に目を這わせたが革靴スニーカーハイヒール、どれもこれも俺の常識の範疇に収まっていた。だが、それ以上に恐ろしいと思ったことが。

周りの客を見て気付いたのは、皆一様にスマホをポッチングしているという事実。彼女がこんなにも個性のバーゲンセールをゲリラで開催しているのも他所に目線を自分の胸元少し前に固定。他人の装いを見てはしゃぐことの悪趣味さは百も承知千も合点であるが、だからといってお前ら。スマホ越しに今を共有などしなくてもよい、至近距離に居る俺と今を共有してくれ、そんな思いで件の紐を見続けていたのであるが、この熱意に応えてくれるのは情熱の赤だけ。凝視を続けている内、もしかしたら歪んでいるのは俺の方なのかもしれない、そう思えて自分の靴紐を結びなおし、スマホにそっと手を伸ばした。