一富士二鷹三ギャツビー

ふぐりたたみ洗い。そう貼り紙された流しの蛇口をひねろうとした瞬間に目が覚め、トイレに向かうことになった。

トイレから戻りベッドの中、寝ぼけた思考ながらにこの言葉について考えてみたがその意味を汲むことができずに至る現在。よくある睡眠中の尿意に対するアラートの一種として水場の夢を見たのだろうが、それまではトイレを探してデパート内を駆け回るなどかなり直接的なイメージで膀胱の危機を告げるものであった。が、今回は自らのホースを蛇口に見立てる婉曲表現。脇には謎のメッセージ、流しの貼り紙と言えば節水や手洗いうがいを喚起するものというセオリーを一切無視した下ネタ。夢らしいといえば夢らしいのだが。「たたみ洗い」という一繋ぎのワードが何らかの専門用語である可能性も捨てきれずにググってもみたのだが畳の洗い方についての質問がヒットするばかりだ。まさに怪文書。

ふぐり。様々な呼称はあれどこれはまあ、ふぐりのことである。性のシンボルであり男なら大体が持っているアレのことで、それ以上でも以下でもない。たたみ。服を畳む、など動詞から派生したものかイグサから作る敷物なのかは分からんが、形と面積を整えて収納しやすくするニュアンスだろうか。洗い。ふぐりと同じく読んで字の如く、だ。流しの脇にこの文字列が添えられているということはそこの水を使って洗え、ということなのだろうか。人間を入れるには不親切な狭さのスペースで、下半身を露出し、ふぐりをどうにかして畳んでから洗えば何らかのミッションから解放される、そんなメッセージのこもった夢なのだろうか。

水場の夢が尿意以外のものも示唆している可能性も考えて「水場 夢」のワードでググることも試してみた。最も近いと思われるものは「水道の栓をひねる夢」。意味するところは「望みが叶わず、欲求不満が限界まで達している」……。そこからさらにふぐりを水に浸そうとするストーリー。今、一つの意味に向かい始めている趣がある、が、何しろ今年の初夢。ただの尿意の顕れだと思うことにした。

平成30年のゲートボール

あけましておめでとうございます。

明けなさそうな雰囲気を漂わせつつも無事、2017年が明けた。2018年。鼻垂らし小僧だったあのころの俺がこの年号を聞いて何を想像するのだろうか、恐らくは足りていない頭で必死にSFめいた妄想をめくるめけさせるのだろうが、そういう時代に立つことができたというのは紛れもない幸福だ。もうすぐ平成が終わるんだぞ、あの時の俺よ。

2017年は自分目線では様々なことがあった年ではあるが、これが他の人から見て「いろんなことがあった」と振り返ることができるかどうかは疑問ではある。基本的に大学、家、病院の三角形をなす線分を移動する動点Pといった振る舞いは多くの受験生を悩ませることになりうるだろうが、これで大体俺の1年が表現できてしまう。この間にも日記を発作のように書き始めたりまた更新停止したりと精神の波が落ち着いてくれる気配が一向に無かったのだが所詮は悲しき一人相撲。客観的に見て不健全極まりないのだが、それでもどこか自分の書いたものを吐き出す場所がないというのも悲しいので、定期的に発作が起こって文章がつづられてしまう、そしてそれもまた不健全なもので。地獄の無限ループ。

今年も早朝に例年通りに近くの神社2件に初詣をしてきた。思えば続いている習慣というものがこれくらいしかない、年1行事しか継続できない堪え性の無さ。前述のとおりこのブログは発作のおかげで続いている、悪い(あるいは良い)発作のせいで明日にはプライベートモードになる可能性も0ではない。今年の目標はこのブログが来年を無事迎えること。ハードルは下げれるだけ下げておいた方がいい。

湯けむり地獄変

銭湯に行って最初にすべきことは何だろうか。靴や衣服を脱ぐことだろうか、という一般論はさておいて俺はトイレに行きたかった、うんこをしたかった。一般論も吹き飛ぶほどの便意だと思ってくれて構わない。早速ロビー裏にあるトイレに駆け込んだのだが未曽有の満室、少しの時間待ってもみたが頑として使用中を示す赤のサインが3つある個室から消えることはなかった。その間に腹痛は加速し肛門に凡そ耐えがたい疼きが。けたたましい警告音が脳内で乱れ飛ぶが案ずるなかれ、脱衣所内にもトイレは存在するのだ、俺の肛門と立場が救済される時も近い。男一文字の暖簾をくぐって適当なロッカーに荷物を放り込むと真っ先にトイレへ。

無事に事は済んだ。後のために熱心にウォシュレットとペーパーで責務を全うした肛門をねぎらって、さあ湯に浸かるぞとジーンズを上げた俺によぎる一つのある懸念。俺はここできちんとベルトを締めなければならないのか?社会性を備えた人間として公共の場でベルトを締めて歩くのは割と当然のことであるが、それがこの脱衣所という、全裸がユニフォームの場において拘束力を持つのか否か。刹那でも早く便座に座りたい、便座の温かさを感じながらうんこをしたいという願いで入った場所であったが、まあ当然脱衣所なので目に入ったのは肌色多めの光景であり、ユートピアでありディストピアでもあり。そんな場所でフォーマルに従うことは重要なのか、それなりの面倒臭さを伴うベルトを締めるという行動が果たして必須なのか。トイレに入る瞬間にも一人とすれ違っているが、やはり全裸であった。悩んでいる際にも容赦なく水が尻にぶっかけられている。ここでベルトの緩んだ状態を晒すことで文明を拒否したファッションの群れに後ろ指をさされてしまうのか、というとそんなことはないのだろうが。皆が皆フルチンの中で人の目を気にして格好を整えるというのはシュールに映るのだろうか?結局俺はきちんとベルトを締めてトイレを出ることにした、1分と立たずにそのベルトは緩められることになるのに。周りの野郎共に溶け込むために、一刻も早く全裸になりたかった。赤の他人のいる空間で全裸になりたいと思ったのはあれが初めてで、願わくばあれが最後であって欲しいと思う。

燃えよドラゴムズ

長らく低迷に喘いでいた中日ドラゴンズのリーグ優勝がかかった試合だということで食い入るようにテレビを見つめていた。決戦の舞台はナゴヤ球場、相手は巨人、お膳立ても完璧というわけだ。少々時代背景が気になるところではあるが。何だったら先発も山本昌だったかもしれん。胴上げの瞬間を見ようと球場に集ったファンの熱気をモニター越しに感じながら、たこ焼きのようなものをつまんだ。ゴムのような味とゴムのような食感がした。

試合は見事37-19で中日が勝利、思い返せばアメフトのようなスコアだが最後はセンターライナーをダイビングキャッチという守りの野球に徹した中日らしいアウトで締め。幾年かぶりのリーグ制覇に浮かれていると、不意に母から最近流行りの応援グッズだとしてバブルヘッド人形が差し出された。メジャーリーグではよく見るがついに日本にもその波が来たらしい。揺れる主力選手の頭を見つめていると、この商品のウリとして何とこの頭が食べられるのだ、と告げられた。ので、客観的に見てグロテスクな光景ではあるが、物は試しと早速かじってみると口の中でゴムのにおいがいっぱいに広がったので思わずその場で吐き出した。脇に投げ出されていたビニール袋を覗いてみると、中に野球選手の生首を模した可食の物体が3つほど。加えて袋から放たれた強烈なゴム臭に顔を背けざるを得なかった。

ほとんど間髪を入れずに、これお父さんが使っていたものだから、と母がさらに爪切りを差し出してきた。もはや中日の優勝などどうでもいいことのようだ。爪切り、と言ってもハサミ亜種のような形状ではなく、切った爪がどこかに飛んでいくことのないように刃と箱が一体になった、ちょうど鉛筆削りのような具合である。これが父の形見だと思うと大事にしなければならないような気もしたが、爪切りとしてポータビリティが致命的な上に置き場所に困るという欠点を抱えているし箱の中にまだ誰のかわからない爪が残っているし。どうしたものかと手をこまねいていると、素晴らしい機能がある、と母が言うので、ややワクワクしながら居住まいを直して聞いてみると、何と箱部分以外は可食なのだという。またか。呆気にとられた俺を差し置いて追い打ちのようにしゃべり続ける母、このタイプの爪切りは元々は父の発明品で商業的ヒットを記録したこともあり、俺が生まれる前にはこちらの爪切りが主流だったこともあるそうだ。

ゼーマン硬貨

財布から上手く小銭を取り出せない。

小銭だけでなくお札を取り出すのにもやや手間取るが、それにしても小銭を取り出すのが遅い。レジに並んでいるとよく分かる、先に会計を済ませるマダムたちの巧みな手捌きと、鼻息を荒げながら必死に小銭を手繰り寄せるバーバリアンこと俺との差。現在の財布との付き合いももう長いので形状、容量などは知り尽くしているがそれでも一向に小銭が手につかない。つく気配がない。この差を自覚したのは中学生のころだったと記憶している、都合10年ほど前からレジに通されるたび、心中でレジ打ちの人たちに土下座をしながらジャラジャラと十円玉をかき集め続けてきた。友人達と店に入ってもやはり俺だけ支払いに時間がかかる。何がダメなのか。

当時中学生なりに原因を考えてみた。物は違うが、当時も今現在と同じくがま口に当たる部分が2つに分かれたタイプの財布を使っており、その2か所にそれぞれ十円以上と五円以下の小銭を分けて入れていた。硬貨をカテゴライズすることでスムーズな出し入れが可能になるものだと思っていたが、これが全くの逆効果だったのではないか。斯様な少年時代のひらめきにより、2つあるがま口の片方はその本来の意味を為さなくなり鍵やギザ十など「貴重ではあるが封入先を間違えたもの」達が詰め込まれるようになった。この硬貨のサラダボウルスタイルを始めてからもレジタイムは縮まることはなく、マダム方が速やかに会計を済ませる様を、すなわち財布から大小の金を取り出す様を食い入るように見つめていたこともあった。技術を目で盗む所存であった。だがそれは客観的に見て、他人の財布の中身に興味津々だという、卑俗さをアピールしているようにしか思われなかったのでこの習慣はすぐに打ち切られた。

財布からスムーズに小銭を取り出す技術を身に着ける機会は俺からほとんど失われた。単純な話、俺が輪を掛けて不器用なだけだったのだろう。半ばあきらめの境地にいるが、店に入るたびに、財布を開くたびに鼻息を荒げて小銭を繰ろうとする俺がいることに気づく。要は人前でいい恰好をしたいだけなのだ。五百円玉から一円玉まで混在するカオスからコンマ数秒で五十円玉を拾い当てることが今日も出来なかった。もう片方のがま口にはやはり「貴重ではあるが封入先を間違えたもの」が入っている。ギザ十とか今年引いたおみくじとかだ。どうやら大吉だったらしい。ホントか。